獨鈷抛山と八木城攻め

※八木城(内藤)を攻める際に明智光秀が当山を拠点にしたという情報が散見されますが、 当山には内藤側の陣所になったと伝わっています。山中には砦跡があるという情報も散見されますが、 当山にはそのような言い伝えは残っておりません。山中に石垣があり、 さも何かの遺跡のように記載されているものも見られますが、田んぼの石垣跡です。

★山中に砦(とりで)があるという話は平成20年ごろからのもので、 それ以前にはそういった話はありません。砦跡の真偽は不明ですが、はっきりと砦跡のように見えるものは確認できません。

★明智光秀が当山を拠点にしたという話は平成末〜令和に出てきたものです。
 この根拠としている史料は『四百年前社寺建物調書』で、兵火によって大半が破損したとしか記載されていません。

 当山と八木城の位置関係や地形からすると、明智光秀が当山を拠点にしたとは考えにくく、 仮に明智側の拠点であったとすると内藤側に攻められて兵火にあったことになります。

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明治末、本山・妙心寺に提出した『寺籍調査表』の「開創由緒」には以下の記載があります。

「天正五年明智光秀ト内藤備前守ト屏風岩ニ戦ヒ 当山ヲ内藤ノ陳所トスルヲ以テ光秀ノ為メ兵燹ニ罹リ大半焼失シ…」

※「陳所」=「陣所」

 「兵燹」(へいせん)=「兵火」

(天正5年、明智光秀と内藤備前守とが屏風岩で戦い、当山を内藤が陣所としたことから光秀による兵火にかかり大半が焼失し…)

村長証明印:明治45年6月3日

教 区教務所取締奥印:大正元年11 月15日

※明治末に当山から本山・妙心寺へ提出した『寺籍調査表』より転載 (抜粋)

画像は一部加工しています。

【屏風岩】

屏風岩は八木城とは逆の薭田野側の麓(ふもと) と当山の間にあります。

※ 『四百年前社寺建物調書』(明治16年4月9日)より転載(抜粋)

「天正七年六月ノ頃兵火ニテ大半破損ス」

『寺籍調査表』と兵火年に相違がみられますが、 こちらの『四百年前社寺建物調書』には明智側、内藤側という記載はありません。

建物(旧観音堂)についての調書であることから「破損」と記載していると思われます。

八木城の落城年月については諸説あるようです。