獨鈷抛山と八木城攻め※八木城(内藤)を攻める際に明智光秀が当山を拠点にしたという情報が散見されますが、 当山には内藤側の陣所になったと伝わっています。山中には砦跡があるという情報も散見されますが、 当山にはそのような言い伝えは残っておりません。山中に石垣があり、 さも何かの遺跡のように記載されているものも見られますが、田んぼの石垣跡です。★山中に砦(とりで)があるという話は平成20年ごろからのもので、 それ以前にはそういった話はありません。砦跡の真偽は不明ですが、はっきりと砦跡のように見えるものは確認できません。★明智光秀が当山を拠点にしたという話は平成末〜令和に出てきたものです。
|
※ 『四百年前社寺建物調書』(明治16年4月9日)より転載(抜粋)「天正七年六月ノ頃兵火ニテ大半破損ス」『寺籍調査表』と兵火年に相違がみられますが、 こちらの『四百年前社寺建物調書』には明智側、内藤側という記載はありません。建物(旧観音堂)についての調書であることから「破損」と記載していると思われます。 八木城の落城年月については諸説あるようです。 |